靭猿うつぼざる
抱節 述

狂言「靭猿」に基づく。大名が靭の毛皮にしようと猿を所望するが、猿曳きの情と猿のいたいけな仕草に心を動かされ、命を助ける。子役が小猿を勤める、ほのぼのとした曲。
あらすじ
弓矢と靭の由来を説き起こし、春の隅田川へ。花見の舟に乗り合わせた猿曳きが岸に着くと、狩に出た大名が小猿を見つけ、靭の毛皮にしたいと所望する。猿曳きは断るが、大名は弓を引いて脅す。やむなく猿曳きが鞭を振り上げると、小猿はそれを芸の合図と思い、船を漕ぐ真似を始める。その姿に大名は心を打たれて命を助け、喜んだ猿曳きは礼に猿を舞わせる。山王の猿にちなむ祝言の舞で結ぶ。
詞章と現代語訳
夫れ弓矢の始りは、神代の時より用ひしとかや、聞きつらん
そもそも弓矢の始まりは、神代の昔から用いられたものだという。お聞き及びであろう。
矢入れを靭と名づけしは、其の中空にして、外に毛皮をかけたるは、粟の穂なぞに似たればとて、空穂とは言ひ伝ふ
矢を入れる筒を靭と名づけたのは、その中が空であり、外に毛皮を掛けた姿が粟の穂などに似ているからで、それゆえ「空穂」とも言い伝えるのである。
あら不思議やな、怪石裂けて石卵生じ、忽ち化して猿となる事は、人を教のたとへ草
ああ不思議なことよ。怪しい石が裂けて石の卵が生じ、たちまち化して猿となったという話は、人を教え諭すための譬え話である。
秋ふく風に笛の音は
秋に吹く風にまじる笛の音は。
草刈る童子もいづくかと、たよりし先はそれならで、妻をこひしと鹿笛に、へだてられたる渓川へ、散りし紅葉も時雨にぬれて、とけて嬉しき
草刈る童のものかとその方を頼りに聞けば、そうではなく、妻を恋うて鳴く鹿笛の音であった。隔てる谷川へ散った紅葉も時雨に濡れて、打ち解けて嬉しい。
雲の昏もしろや
雲の暮れゆくさまも面白いことよ。
早あら玉の春ぞ来る、ぞめき囃せし
はや、あらたまの春がやって来る。浮かれ囃した。
花の中
花のただなか。
草の莚にひく三味線の其の糸桜いとひなく
草の筵に座って弾く三味線——その糸から糸桜へ。厭うこともなく。
殿も家来も
殿も家来も。
ほのめく顔の、よい緋ざくらの向島、土堤の錦も
ほんのり赤らんだ顔——その緋桜のような向島。土手を彩る錦もまた。
花の空、竹屋竹屋と呼ぶ舟に、乗合せたる
花に霞む空。「竹屋、竹屋」と渡し舟を呼ぶ声。その舟に乗り合わせた。
猿廻し、こなたの岸へと
猿廻しが、こちらの岸へと。
つきにけり
着いたのであった。
太郎冠者あるか
太郎冠者、おるか。
ハア御前に候
はあ、御前に控えております。
あれに背負ふた逸物を、いづくへ伴ふなるか
あれに背負っている見事な猿を、どこへ連れて行くのか。
尋ねて参り候へと
尋ねて参れ、と。
仰せに冠者は心得て、のうのう猿曳とまれとこそ、其の猿いづくへ引き候やと言ひければ
その仰せに冠者は心得て、「のうのう猿曳き、止まれ」と呼びとめ、「その猿はどこへ引いていくのか」と尋ねると。
賎の男はハアと手をつかへ、やつがれは此の辺に住む猿曳にて候が、今日もお旦那廻りを致さうと存じまする、心急げばやつがれは、そろりそろりと参らうか
賤しい身の男ははあと手をつかえ、「手前はこのあたりに住む猿曳きでございますが、今日も御贔屓のお屋敷をまわろうと存じます。気が急きますので、手前はそろりそろりと参るといたしましょう」。
やれ待たうぞ猿曳、この方はかくれもない大名でおりやる、今日は春野の遊にて、弓矢をかたげ狩に参つたるが、あれに持たせたる靭を、ないない毛皮にしようと思ふ折柄、よい猿に逢ふた、その猿の皮を申受けたしと
「やれ待て、猿曳き。こちらのお方は隠れもない大名であらせられる。今日は春野の遊びに、弓矢をかついで狩においでになったが、あれに持たせた靭を、かねてより毛皮で覆おうとお考えのところ、ちょうどよい猿に出逢った。その猿の皮を頂戴したい」と。
聞いて驚く猿曳が、猿の皮をお好みとな、そもやそも生きて居るものの、皮が何とてあげらるるで御座らうぞ
それを聞いて驚いた猿曳きは、「猿の皮をお望みとおっしゃるか。そもそも生きているものの皮を、どうして差し上げられましょうか」。
此の猿をもちまして、ひと日ひと日の命を送ります、是をあげましては翌より何の手業なし、こればかりはお許しと
「この猿があればこそ、一日一日の命をつないでおります。これを差し上げては明日から何の手立てもございません。これだけはお許しを」と。
詫ぶるに聞かぬ大名の、威を張りつめし強弓の、ひと矢にて射てと立ちかかる
詫びるのも聞かぬ大名は、威を張って強弓を引き絞り、一矢で射てやろうと立ちかかる。
ああもし待つて下さりませ、猿の皮が御用ならば御手を下し、射殺されましては皮に疵がつき、爰に猿のひと打ちと申しまして、ひと打ちに命のうせる所が御座るによつて、殺して進ぜませう
「ああ、もしお待ちくださいませ。猿の皮がご入用ならば、お手を下されて射殺されては皮に疵がつきます。ここに『猿のひと打ち』と申しまして、ひと打ちで命の絶える急所がございますゆえ、手前が殺して差し上げましょう」。
太郎冠者も心得て、早う早うと進めけり
太郎冠者も心得て、早く早くと急かすのであった。
またあるまじき殿の御意、畜類なれどもよう聞けよ、小猿の時より飼ひ育て、今更憂目を見る事は不憫な事ぞ
「二度とあるまじき殿のご命令。畜生ではあるがよく聞けよ。小猿の時から飼い育てたおまえが、今こんな憂き目を見るとは、不憫なことよ」。
今うつ程に草葉の蔭にても、恨と思ふて呉れるるなよ
「今から打つのだから、草葉の陰に行っても、恨みに思ってくれるなよ」。
あれ是非なしと振上ぐる鞭の下、まはる小猿のいぢらしき
ああ是非もないと振り上げる鞭の下で、くるりと廻ってみせる小猿のいじらしいことよ。
あれあれ今のを御覧なされましたか、打殺さるる鞭とは知らで、船漕ぐ真似を仕りまするぞ
「あれあれ、今のをご覧になりましたか。打ち殺される鞭とも知らないで、船を漕ぐ真似をいたしますぞ」。
何殺さると知らいで、芸をするとは不憫な事ぞ、やい太郎冠者、うつなと言へ言へ、連れて帰れと申せへと
「何と、殺されるとも知らずに芸をするとは不憫なことよ。やい太郎冠者、打つなと言え、言え。連れて帰れと申せ」と。
聞いて喜ぶ猿曳が、唯有難しと伏拝み
それを聞いて喜んだ猿曳きは、ただありがたいと伏し拝み。
此の上は御礼に、猿にひと舞まはせませうと
「この上はお礼に、猿にひと舞い舞わせましょう」と。
声張上げ
声を張り上げて。
エエイ猿が参つてこなたの御知行、まさる目出たき能仕る
ええい、猿が参りましてこちらの御知行が「まさる」——めでたい芸をお目にかけます。
猿は山王まさる目出たき目出度さよ
猿は山王権現の使い。「さる」が「まさる」に通じてめでたい、めでたいことよ。
天より宝が降りくだつて、増生すれば綾や千反、錦千反唐織物よ
天から宝が降り下り、いよいよ増えれば綾が千反、錦が千反、唐織物までも。
地には黄金の
地には黄金の。
花が咲き候、実に豊かなる時なれや
花が咲きまする。まことに豊かな御代であることよ。
実に豊かなる時なれや
まことに豊かな御代であることよ。
さらば我らは御暇と、元来し道へ帰らんと
それでは私どもはおいとまをと、もと来た道へ帰ろうと。
花を見捨てて帰る雁、空も高根の不二筑波、名にあふ隅田の春の夕景色をここにとどめけり、景色をここにとどめけり
花を見捨てて帰る雁。空も高い富士、筑波。名に負う隅田川の春の夕景色を、ここに描きとどめたのであった。景色をここに描きとどめたのであった。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。
〔 〕で括った話者の指示は、読みやすさのために補ったもの。原典にはない。
狂言「靭猿」に基づく松羽目物。大名・太郎冠者・猿曳き・小猿の四人立ちで、小猿は子役が勤める。
「靭」は矢を入れて背に負う筒。外側を毛皮で覆うことがあった。
「怪石裂けて石卵生じ」は西遊記の孫悟空の誕生譚による。
「竹屋」は隅田川の竹屋の渡し。向こう岸へ呼びかける声として知られた。
「猿は山王」は日吉山王権現が猿を神使とすることによる。「さる」を「まさる(勝る・増さる)」に掛けてめでたさをいう。
作曲年・初演は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。