西王母せいおうぼ
杵屋六左衛門 述 変化舞踊「八重九重花姿絵」の一 別題「国豊かの西王母」

三千年に一度実るという仙桃を帝に捧げる西王母の物語。能「西王母」に取材した祝儀曲で、末は花が蝶と化し、王母が雲路に消える。
あらすじ
国豊かなる三皇五帝の昔から今のこの御代に至るまで、これほどの聖主の例はない。ああ有難い時代である。桃李もの言わずとはいうが、幾千の歳月を送り迎えて三千年に一度実るという桃の花の顔。露に色香も十寸鏡。移ろうものは世の中の人の心——花ならぬものよ。さりとては、君の恵みの深緑。いざ捧げよう、花も実もある桃の寿を。ああ不思議なことよ、水茎のあとに奇特が現れ、たちまち花は飛び散って蝶の姿となり、雨を呼ぶかと見えた。雲路に移れば王母もともない、天の羽袖が風にひるがえって、降りくる雨を打ち払い打ち払い、光を放つ稲妻とともに雲に紛れて消えたのであった。
詞章と現代語訳
国豊か三皇五帝の昔より、今此の御代に至るまで、かかる聖主のためしこそ、あら有難の時代なれ、あら有難の時代なれ
国が豊かであった三皇五帝の昔から今のこの御代に至るまで、これほどの聖主の例はない。ああ有難い時代であることよ、ああ有難い時代であることよ。
桃李もの言はず春幾干の歳月を、送り迎へて三千年に、なるてふ桃の花の顔
桃李はもの言わずとはいうが、春を幾たび、幾千の歳月を送り迎えて、三千年に一度実るという桃——その花のような美しい顔である。
露に色香も十寸鏡
露に映る色香も、澄んだ真澄鏡のようである。
うつろうものは世の中の
移ろうものは世の中の——
人の心の花ならぬ
人の心。それは花ではないけれど、花と同じく移ろうもの。

去りとては
さりとては——
君が恵の深緑、いざや捧げん花も実もある桃の寿、あら不思議やな水茎の、奇特現はれ忽に、花飛び散りてひてふの姿、雨を呼ぶとぞ見えにける
君の恵みは深緑。さあ捧げよう、花も実もある桃の寿を。——ああ不思議なことよ。水茎のあとに奇特が現れ、たちまち花は飛び散って蝶の姿となり、雨を呼ぶかと見えたのである。
雲ぢにうつれば王母もともなひ、天の羽袖の風に翻り、振り来る雨をうち払ひうち払ひ、光を放つ稲妻の、雲に紛れて失せにけり
蝶が雲路へ移れば王母もそれにともない、天の羽袖が風にひるがえって、降りくる雨を打ち払い打ち払い、光を放つ稲妻とともに雲に紛れて消えてしまったのであった。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。
「西王母」は中国の崑崙山に住むという仙女。三千年に一度実る仙桃を持ち、これを食べると不老長寿を得るとされる。能「西王母」に取材し、帝の御代を寿ぐ祝儀曲となっている。
「三皇五帝」は中国古代の伝説的な聖天子たち。「聖主」はすぐれた君主。
「桃李もの言わず」は『史記』の「桃李不言下自成蹊」(桃や李はもの言わないが、その下に自然と道ができる)による。徳のある人には人が集まるという意。
「十寸鏡(ますかがみ)」は曇りのない澄んだ鏡。
「水茎」は筆跡のこと。ここでは帝に捧げた文字のあとに奇特が現れたことをいう。
変化舞踊「八重九重花姿絵」の一で、別題を「国豊かの西王母」という。
作曲年・初演は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。