汐汲しおくみ
変化舞踊「七枚続花の姿絵」の一

能「松風」に基づく。在原行平に愛された須磨の海女・松風が、形見の烏帽子狩衣を身につけ、汐汲の桶を担いで昔を偲ぶ。後半は傘尽くしの一段。
あらすじ
須磨の浦。行平の形見の烏帽子と狩衣を身につけた海女が、汐を汲みながら在りし日を偲ぶ。桶の水に映る月を眺め、須磨の夕暮れ、千鳥の声、塩屋の煙のなかで昔を語る。後半は「傘」の語を次々に連ねる物尽くしの一段となり、末は行平を待ちわびた松風の名だけが世々に残る、と結ぶ。
詞章と現代語訳
松ひと木変らぬ色の印とて、今も栄えて在原や
松が一本、色を変えぬしるしとして立っている。その名も今なお栄える在原——行平の縁の地である。
形見の烏帽子狩衣、着つつなれにし俤と
形見の烏帽子と狩衣。それを着ては、馴れ親しんだあの人の面影を偲び。
うつし絵島の浦風に
その姿を絵に写すような絵島の浦風に吹かれて。
床しきつてを白浪の、よする渚に世を送る
慕わしい便りを求めながら、白波の寄せる渚で日々を送っている。
いかに此の身が海士ぢやといふて、辛気辛気に袖濡れ濡れて
いくらこの身が海女だからといって、気の晴れぬまま、袖を濡らしてばかりいる。
いつか嬉しき逢ふ瀬もと、君にや誰か柘植の櫛、さし来る汐を汲まうよ、汲分けて
いつか嬉しい逢瀬もあろうかと。あの方に誰が告げてくれよう——柘植の櫛を挿すように。さあ、差してくる汐を汲もう、汲み分けて。
見れば月こそ桶に在り
見れば、月が桶の水に映っている。
これにも月の入りたるや
こちらの桶にも月が入っているではないか。
月はひとつ
月はひとつなのに。
影はふたつみつ
その影は二つ、三つと。
見られつも雲の上、此処は鳴尾の松蔭に、月を荷ふて
見上げれば月は雲の上。ここは鳴尾の松蔭。桶に映る月を天秤に担って。
休らひぬ
しばし休んだのであった。
見渡せば面白や、なれても須磨の夕まぐれ、漁る舟のやつしつし、浪を蹴たてて友呼び交す、はんま千鳥のちりやちりちり、ぱつと塩屋の煙さへ
見渡せばおもしろい。住み馴れてもなお心にしみる須磨の夕暮れ。漁をする舟が波を蹴立てて行き交い、浜千鳥が仲間を呼び交わしてちりちりと鳴く。ぱっと立ちのぼる塩屋の煙までも。
立つ名厭はで三歳はここに、須磨の浦回の松の行平、立帰り来ば我も小陰にいざ立寄りて
浮き名の立つのも厭わず、三年をここで過ごした。須磨の浦のあたりの松——「待つ」の行平が、もし立ち帰って来るなら、私もその木蔭に、さあ立ち寄って。
磯馴松のなつかしや
潮風に傾いた磯馴松の、なんと懐かしいことよ。
かたみこそ今は仇なれ見初めて初めて
形見こそ、今となってはかえって恨めしい。初めて見初めたあの日から。
逢ふたその時やつい転び寝の、帯も解かいでそれなりに、二人が裾へ狩衣を、掛けてぞ頼む睦言に
逢ったあの時は、つい転び寝のまま。帯も解かずにそのままで、二人の裾へ狩衣を掛けて、頼りにした睦言に。
可愛烏のエエ何ぢややら、泣いて別りよか笑ふて待つか、又は来んとの約束を
可愛い烏が——ええ、何やら鳴いている。泣いて別れようか、笑って待とうか。また来るという、あの約束を。
忘るるひまは
忘れる暇など。
ない
ない。
わい
ない。
な
のですよ。
それから深う言ひかはしまの
それから深く言い交わした仲。
水も漏さぬなかなかに
水も漏らさぬ仲、そのなかにも。
濡れによる身は傘さしてござんせ、人目せき傘いつ青傘と
濡れ事に身を寄せるのだから、傘を差しておいでなさい。人目を避ける関の笠、いつまでも青い傘と。
ほんに指折り其の日傘、待つに長柄の辛気らし、それへそれへ
ほんに指折り数えて待つその日を——日傘。待つ身には長柄の傘の柄のように、じれったくもどかしい。それそれ、そちらへ。
気をもみぢ傘白張の、殿御に操立傘も、相合傘の末かけて
気を揉む——紅葉傘、白張の傘。殿御に操を立てる、その立傘も、いつかは相合傘の末を頼みにして。
誓文真実褄折笠といはれたら、思ひもひらく花傘
誓いも真実と、褄折笠のように折り目正しく言われたなら、思いもぱっと開く花傘。
しほらしや
いじらしいことよ。
暇申して帰る波の音の
おいとまを告げて帰る——その帰る波の音の。
須磨の浦かけて村雨と聞きしも、今朝見れば松風斗りや
須磨の浦にかけて、村雨かと聞こえたものも、今朝見ればただ松風ばかりであった。
残るらん松風の、残るらん松風の、噂は世々に残るらん
残ることだろう、松風の。残ることだろう、松風の——その名と噂は、いつの世までも残ることだろう。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。
能「松風」に基づく。在原行平が須磨に流された折に愛した海女の姉妹、松風と村雨の物語。姉妹の名は「待つ」「群雨」に掛かる。
行平の和歌「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」を下敷きに、「松」と「待つ」を全曲にわたって掛ける。
桶の水に映る月を眺める一段は、能「松風」の見どころをそのまま写したもの。
後半は「傘」の語を次々に詠み込む物尽くし。関の笠・日傘・立傘・相合傘・褄折笠・花傘と続ける言葉遊びで、この曲の眼目の一つ。
「ない/わい/な」は「ないわいな」を三つに切って掛け合う演出。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同がある。演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。