正札附しょうふだつき
杵屋六三郎 述 本名題「正札附根元草摺」 草摺引物・曽我物

曽我五郎時宗の鎧の草摺を、小林朝比奈が引きとめる力比べ。中ほどは廓の恋の唄に転じ、末は二人の勢いを貴賎こぞって恐れ入る。
あらすじ
磯山を覆う雲霧も、ただ引幕の初霞。蹴破る勢いは鳴滝を登る鯉が龍となるようで、曽我の五郎時宗は逆沢潟の重鎧を軽々と提げて駆け出す——目ざましくもまた見えたことよ。その裳裾にしっかり取りついたのは小林朝比奈。掛烏帽子に鶴の丸、左右の髭に天津風、雲もなく行かせまいと力の限り引くけれども、少しも動かない。時宗は笑って振り離し、「いらぬ腕立て、たとえその力があろうとも、それでは行かせぬぞ」と仁王立ちになる勢いは、草木もなびく鬼神のよう。鬼をあざむく朝比奈も、今は心を和らげて「これ申し」——野暮な力は奥の間の浮気らしさのしんき節、女子の愚痴な真実が届かぬことか、待つ夜半も。蒲団を重ねて敷妙の、枕の土俵に化粧紙。間夫に逢う夜の力水、漏らさぬ仲の文相撲。人目を関の憂き思い、煙草は憂さを忘れ草。煙比べん富士浅間と、そっと覗いて「おお、その顔はまあ憎らしや」と言ってはまた取りつき、えいやえいやと引けども押せども、こりゃどうじゃ。「朝比奈、力はそれきりか」——むむ、ええ、髭が試しの力瘤、落としはせぬかと撫でまわし、「引くのに止まらばこらえて見よ」もさもさもさ。別足を踏みしめて時宗は、「時こそ来れ、嬉しさよ」——父河津の声も身に知る、今や遅しと夢の間も忘れぬ父の仇、討たんものと飛び上がり走り行こうとするところを、またも行かせじと引き留める。「これ、待った」「留めても止まらぬ」——無理酒に気強い朝のひぞり言。「何じゃいな、お置きなさんせ」「肩に手拭、染めも構わぬ江戸自慢」「かまいませぬ、派手なところがわしゃ嬉しい、ええ止まらんせ」。勇ましや——互いに争う勢いは、前代未聞・当世無双・後代無二の評判。東に並ぶ二見潟、ここに移して神風や。恵みも深い若者と、貴賎上下おしなべて、恐れ入らぬ者はなかったのである。
詞章と現代語訳
それ磯山おほふ雲霧や、ただ引幕の初霞、蹴やぶるせいは鳴瀧を
それ、磯山を覆う雲霧も、ただ芝居の引幕にかかる初霞のようなもの。それを蹴破る勢いは、鳴滝を——。
登る鯉龍の如くにて、曽我の五郎時宗は
登る鯉が龍と化すようで——曽我の五郎時宗は。
逆沢潟の重鎧、軽げに提げ駆け出すは
逆沢潟威の重い鎧を軽々と提げて駆け出すそのさまは。
目ざましくも又見えにけり、裳裾にしつかり小林が
目もさめるばかりに見えたことよ。その裳裾にしっかりと取りついた小林朝比奈が。
手を懸烏帽子鶴の丸、左右の髭に天津風、くもなくやらじと力量に、引けども引けども動かばこそ、時宗笑つて振離し、いらぬ腕立よしやその、力あるともそりやゆかぬ、仁王立なる勢は、草木もなびく鬼神や
手をかける掛烏帽子に鶴の丸の紋、左右に張った髭に天津風。雲もなく行かせまいと力の限りに引くけれども、引けども引けども動かばこそ。時宗は笑って振り離し、「いらぬ腕立てだ。たとえその力があろうとも、そうはゆかぬ」と仁王立ちになるその勢いは、草木もなびく鬼神のようである。
鬼をあざむく小林も、今は心を和らげて
鬼をもあざむく小林朝比奈も、今は心を和らげて。
これ申し
「これ、申し」
野暮な力は奥の間の、浮気らしさのしんき節、女子の愚痴な真実が、届かぬことか待つ夜半も
野暮な力より、奥の間の浮気らしさのしんき節。女子の愚痴めいた真実が届かぬことがあろうか、待つ夜半も。
蒲団重ねて敷妙の、枕の土俵化粧がみ
蒲団を重ねて敷妙の、枕を土俵に見立てての化粧紙。
間夫に逢ふ夜の力水、もらさぬ仲の文ずまひ
間夫に逢う夜の力水、水も漏らさぬ仲の文相撲。
人目をせきのうき思ひ煙草は憂さを忘れ草、煙比べん不二浅間、そつと覗いて、オオ
人目を関にせき止められる憂き思い。煙草は憂さを忘れる草、その煙を富士や浅間と比べようか。そっと覗いて——「おお」
その顔はまあ憎らしやと、言ふては又も取付いて、ゑいやゑいやと引けども押せどもこりやどうぢや
「その顔はまあ憎らしや」と言っては、またも取りついて、えいやえいやと引けども押せども——こりゃどうじゃ。
朝比奈力はそれきりか
「朝比奈、力はそれきりか」
ムムエエ髭が試しの力瘤、落しやせぬかと撫廻し、引くに止らばこらへて見よ、モサモサモサ
「むむ、ええ」——髭をひねって試しの力瘤、それを落としはせぬかと撫でまわし、「引くのに止まるなら、こらえて見よ」もさもさもさ。
べつそく踏しめ時宗は、時こそ来れ嬉しさよ
別足を踏みしめて時宗は、「時こそ来たれ、嬉しさよ」
河津の声も身にぞ知る、今や遅しと夢の間も
父河津三郎の声も身にしみて知っている。今や遅しと、夢のあいだも。
忘れぬ父の仇敵、討たんずものと飛上がり、走り行かんとする所を、又もやらじと
忘れぬ父の仇敵を討たんものと飛び上がり、走り行こうとするところを、またも行かせじと。
引留る
引き留める。
これまつた、留めてとまらぬナ、無理酒に気強い朝のひぞり言
「これ、待った」「留めても止まらぬ」——無理酒を勧められての、気強い朝のひぞり言である。
何じやいな置かしやんせ
「何じゃいな、お置きなさんせ」
肩に手拭そめも構はぬ江戸自慢
肩にかけた手拭、その染めも「かまわぬ」——江戸自慢の粋である。
かまいますめうでんす、派手な処がわしや嬉し、エエとまらんせ
「かまいませぬ」——派手なところがわしゃ嬉しい。ええ、止まらんせ。
勇ましや
勇ましいことよ。
互に争ふ勢は、前代未聞当世無双、後代無二の評判は、東に並ぶ二見潟
互いに争うその勢いは、前代未聞・当世無双・後代無二の評判。東に並び立つ二見潟の夫婦岩のように。
ここにうつして神風や、恵も深く若者と、貴賎上下おしなべて
その光景をここに移して神風が吹く。恵みも深い若者たちと、貴賎上下おしなべて。
恐れぬ者こそなかりけり
恐れ入らぬ者は、ひとりとしていなかったのである。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。資料の題名は『正札附根元草摺』。
草摺引物・曽我物。仇討ちに駆け出そうとする曽我五郎時宗を、小林朝比奈三郎義秀が鎧の草摺をつかんで引きとめる。荒事の代表的な型で、今日も独立した舞踊として演じられる。
「正札附」は掛値なしの正真正銘という意。荒事の本家本元という自負を題名に込めている。
「逆沢潟」は沢潟の葉を逆さに配した威(おどし)の文様。曽我五郎の鎧の定型。
「鯉が龍となる」は登龍門の故事。「掛烏帽子に鶴の丸」は朝比奈の扮装。
中ほどの「野暮な力は奥の間の」以下は、力比べを廓の恋になぞらえる唄。「力水」「土俵」「文相撲」など相撲の語を恋に掛ける。
「かまわぬ」は鎌と輪と「ぬ」を組み合わせた判じ物の模様。七代目市川團十郎が好み、「構わぬ」の洒落として江戸の粋を表した。
「二見潟」は伊勢の二見浦。並び立つ夫婦岩を、争う二人の姿に重ねる。
作詞者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。