橋弁慶はしべんけい
能「橋弁慶」による松羽目物

五条の橋で武蔵坊弁慶と牛若丸が出会い、斬り結んだのち主従の契りを結ぶ。詞(ことば)の掛け合いが大半を占め、語り物としての性格が強い。
あらすじ
北野へ丑の刻詣でを重ねる弁慶が、今宵は十禅寺へ参ろうとすると、従者が「五条の橋に蝶鳥のように太刀を使う少年が出る」と止める。いったんは思いとどまるが、聞き逃せぬと橋へ向かう。一方の牛若丸は、明日は寺へ登る身、今宵限りの名残にと橋板を踏み鳴らして人を待つ。薄衣をかぶった姿を女と見た弁慶が行き過ぎようとすると、牛若が薙刀の柄を蹴り上げて戦いが始まる。飛び違い、宙を払い、ついに薙刀を打ち落とされた弁慶は降参し、三世の主従を契って九条の御殿へ向かう。
詞章と現代語訳
是は西塔の傍に住む、武蔵坊弁慶にて候、我が宿願の仔細あるにより、此の程北野へ、丑の時詣仕りて候、又今夜より十禅寺へ、参らばやと存じ候、如何に誰かある
これは比叡山西塔のほとりに住む武蔵坊弁慶でございます。かねてより願をかけている仔細があって、このところ北野天満宮へ丑の刻詣でをしております。また今夜からは十禅寺へも参ろうと存じます。これ、誰かおるか。
御前に候
御前に控えております。
今夜より十禅寺へ参らうずるぞ、供仕り候へ
今夜から十禅寺へ参るぞ。供をいたせ。
今夜は御止まりあれかしと存じ候
今夜はお控えになったほうがよろしいかと存じます。
何とて左様には申すぞ
どうしてそのようなことを申すのだ。
昨日夜更けて五条の端を通り候へば、十二三なる稚き者、小太刀をもつて切つてまはり候は、さながら蝶鳥の如くにて候
昨日、夜更けに五条の橋を通りましたところ、十二、三ばかりの幼い者が小太刀を持って斬ってまわるさまは、まるで蝶か鳥のようでございました。
左様の者あらば、何とて討たざりけるぞ
そのような者がいたのなら、なぜ討ち取らなかったのだ。
討たんとすれば逐ひ払ひ、手元を敵へ寄せず候
討とうとすれば追い払い、こちらの手元へ寄せつけないのでございます。
仮令手元へよせずとも、大勢にては討つべきに、追取り込むれば
たとえ手元へ寄せずとも、大勢で囲めば討てように。取り囲めば。
不思議に外れ
不思議に身をかわし。
間近くよれば
間近く寄れば。
目にも
目にも。
見えず
見えません。
神変不思議奇特なる、都広しといふとも、それ程の者あらじ、実に奇体なる事かな
神変不思議、まことに奇特なことだ。都は広いといっても、それほどの者はおるまい。いかにも不思議なことよ。
十禅寺詣をば、思ひ止まらうずるにて候
十禅寺詣ではやめておくといたそう。
然るべく候
それがよろしゅうございます。
いいや弁慶ほどの者が、聞逃しては叶ふまじ、今宵更けなば橋に出でて、化生の者を平げんと
いや待て、この弁慶ほどの者が聞き逃してはおけぬ。今宵更けたら橋へ出て、その化け物めを平らげてくれようと。
夕程なく暮方の、夕程なく暮方の雲の景色もひきかへて、風すさまじく更くる夜を、遅しとこそは待ち居たれ、待ち居たれ
ほどなく夕暮れとなり、雲のさまも一変して、風が凄まじく吹きつのる。更けゆく夜を、遅いとばかりに待ちかまえていた、待ちかまえていた。
扨も牛若は母の仰せの重けれど、明けなば寺へ登るべし、今宵ばかりの名残ぞと、月の光に眺むれば、面白の景色かな
さて牛若は、母の言いつけは重いけれど、夜が明ければ寺へ登らねばならぬ身。今宵限りの名残と思って月の光に眺めれば、なんと美しい景色だろう。
そぞろ浮立つ我が心、五条の橋の橋板を、とどろとどろと踏み鳴らし、通る人をぞ待ち居たる
そぞろに浮き立つ我が心。五条の橋の橋板を、とどろとどろと踏み鳴らして、通る人を待ちかまえていた。
已に夜を待つ時も来て、山塔の鐘もすぎ間の月影に
やがて待ちかねた夜も更け、比叡山の鐘も鳴り過ぎたころ、雲間の月影のなかに。
着たる鎧は黒革の、縅におどしし大鎧、草摺長に着なしつつ、元より好む大薙刀
身に着けた鎧は黒革縅の大鎧。草摺を長く垂らして着こなし、もとより好みの大薙刀を。
真中取りて打ちかつぎ
その真ん中を握って肩に担ぎ。
ゆらりゆらりと出でたる粧、如何なる天魔鬼神なりとも、面を向くべきやうあらじと、我身ながらも物頼もしく、手に立つ者のあれかしと、五条の橋板ふみならし、心凄げに歩みしが
ゆらりゆらりと現れたその装い。いかなる天魔鬼神とて面と向かえるはずもあるまいと、我ながら頼もしく思い、手向かう者があればよいがと、五条の橋板を踏み鳴らして、凄みのある足取りで歩んでいたが。
薄衣かづき立ち給ふを
薄衣をかぶって立つその姿を。
弁慶見付けて
弁慶は目にとめて。
言葉をかけんと思へども
声を掛けようと思ったけれど。
彼は女の姿なり
相手は女の姿である。
我は出家の事なれば、思ひ患ひ過ぎ行けば
こちらは出家の身であるから、と思い迷って通り過ぎようとすると。
牛若彼をなぶりて見んと、行違ひさまに薙刀の、柄をはつしと蹴あぐれば
牛若はこの男をからかってやろうと、すれ違いざまに薙刀の柄をはっしと蹴り上げた。
スワ徒者よ物見せんと、薙刀やがて取直し、切つてかかれば
さては悪戯者め、目にもの見せてくれると、弁慶はすかさず薙刀を取り直して斬りかかる。
牛若は少しも騒がず
牛若は少しも慌てず。
太刀抜き放ち
太刀を抜き放ち。
つめつ
詰め寄っては。
ひらいつ
開いて離れ。
戦ひしが
戦っていたが。
たたみ重ねて打つ太刀に
たたみかけて打ち込む太刀に。
さしもの弁慶合はせかね、橋桁を二三間、しさつて肝をぞ消したりける
さすがの弁慶も受けきれず、橋桁を二、三間もあとずさりして、肝をつぶしたのであった。
ものものしやと薙刀を、柄長く取り延べ走り寄り
ええ小癪なと、薙刀を柄いっぱいに構え直して走り寄り。
てうと打てば
ちょうと打ちかかれば。
飛び違ふ
飛び違ってかわす。
裾を払へば
足元を払えば。
おどり上り
跳び上がる。
宙をはらへば
宙を払えば。
頭を地につけ
頭を低く地につける。
千々に戦ふ
縦横に戦うことしきり。
大薙刀うち落されて力なく、組まんとすれば
ついに大薙刀を打ち落とされて力及ばず、組みつこうとすれば。
切り払ふ
斬り払われる。
詮方なくて弁慶は奇体なる小人かなと、あきれ果てぞ立ちたりける
なす術もなく、弁慶は「なんと不思議な子供だ」とあきれ果てて立ちつくすのであった。
不思議や御身は如何なれば、斯程健気にましますぞ
不思議なことだ。あなたはいったい何者ゆえ、これほど強くていらっしゃるのか。
我は源の牛若なり、さて汝は
われは源氏の牛若である。して、そなたは。
西塔の武蔵坊弁慶なりと
西塔の武蔵坊弁慶でござると。
名乗り合ひ
たがいに名乗り合い。
降参申さん御免なれ
降参いたします。どうかお許しを。
今より三世の主従ぞと
今から三世にわたる主従であると。
契約かたく仕り
固く契りを結び。
薄衣かつがせ奉り、弁慶は薙刀を打ちかつぎ、九条の御殿へ参りける
牛若に薄衣をかぶらせ申し上げ、弁慶は薙刀を担いで、九条の御殿へと向かったのであった。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。
〔 〕で括った話者の指示は、読みやすさのために補ったもの。原典にはない。
能「橋弁慶」に基づく。能では弁慶がシテ、牛若がツレとなる。
「丑の時詣で」は丑の刻に社寺へ参籠して願をかけること。
「化生の者」は人ならぬもの、化け物。従者の話から弁慶はそう思い込む。
「黒革縅」は黒く染めた革で札を綴じた鎧。「草摺長に」は腰から下げた草摺を長く垂らした着こなし。
「三世の主従」は前世・現世・来世にわたる主従の契り。弁慶と義経の関係を最も端的に示す言葉。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同がある。演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。