文屋ぶんや
清元 変化物『六歌仙容彩』の一段 別題『文屋の康秀』 松井幸三 述 作曲者・初演年不詳

変化物『六歌仙容彩』のうち、六歌仙の一人・文屋康秀の一段。宮中の官女たちに言い寄っては袖にされる康秀の、おかしみのある口説きを描く。烏帽子姿で小鳥を狙う鷹のように官女を狙い、裳裾にじゃれる猫の恋、と洒落て起こす。「むべ山風を嵐といふらむ」の康秀の名歌を「むべ山風の嵐ほど、どっと身にしむ」ともじり、以下、河豚汁・葱の匂い・深草少将の九十九夜通い・末摘花の名代と、振られ続ける言い立てが続く。逢う恋、待つ恋、忍ぶ恋——と恋の名を並べ、駕籠は「して来い」、蚊帳は「呼んで来い」の地口。三下りは「富士や浅間の煙は愚か、衛士の焚く火は沢辺の蛍」と恋の火を重ね、結びは花に嵐の色の邪魔、中殿さしてぞ走り行く。当ライブラリの六歌仙物は喜撰に続く二曲目である。
あらすじ
烏帽子着た、鷹の羽落とし、きょろきょろと、小鳥めがけてひと伸しに。その人柄も康秀が、裳裾にじゃれる猫の恋。届かぬながら狙い来て、行くをやらじと、これ、待った。あだ憎らしい、何じゃいな。お清所の暗紛れ、晩にやいのと耳に口。むべ山風の嵐ほど、どっと身にしむうれしさも。秋の草木か、しおじおと。ひとり寝よとは男づら。鮑の貝の片便り、情けないではあるまいか。寄るを突き退け、こりゃどうじゃ。鼻の障子へたまさかに。葱の香る仇つきは。時候違いの河豚汁で、ひとりばかりか盛り替えを、強いつけられぬ御馳走は。そもそもお辞儀は仕らぬ。これを思えば少将が、九十九夜、九十九夜、思いつめ。傘をかたげて丸木橋、や、おっと危ない。すでのこと、鼻緒は切れて片足ば、ちんが、ちがちが、おお、冷た。その通い路も君ゆえに。衣は泥に、暁の、すごすご帰る憂き思い。ならぬながらも我が恋は。末摘花の名代を、突きつけられて恥ずかしい。地下の女子の口癖に。田町は昔、今戸橋。法印さんのお守りも。寝かして猪牙に柏餅、夢を流して隅田川。男よけならそっちから。頬は高天が原の上、乗せる手ごとはお断り。逃げんとするを恋知らず。引きとめるのを振り払い。いや、いや、いや。逢う恋。待つ恋。忍ぶ恋。駕籠は。して来い。萌黄の蚊帳。呼んで来い。ぎっちり詰まった脂煙管。笑窪の息の浮くばかり。これじゃゆかぬと康秀が。富士や浅間の煙は愚か。衛士の焚く火は沢辺の蛍、焼くや藻塩で身を焦がす。そうじゃえ。合縁奇縁はあじなもの。片時忘るる暇もなく、一切からだも遣る気になったわいな。そうかいな。花に嵐の色の邪魔。寄るをこなたへ遣戸口、中殿さしてぞ走り行く、走り行く。
詞章と現代語訳
烏帽子着た、鷹の羽おとしきよろきよろと、小鳥めがけてひとのしに、其の人柄も康秀が、裳裾にじやれる猫の恋
烏帽子着た、鷹の羽落とし、きょろきょろと、小鳥めがけてひと伸しに。その人柄も康秀が、裳裾にじゃれる猫の恋。
とゞかぬながらねらひ来て、行をやらじとコレ待つた
届かぬながら狙い来て、行くをやらじと、これ、待った。
あだ憎らしい何ぢやいな、お清所の暗紛れ、晩にやいのと耳に口
あだ憎らしい、何じゃいな。お清所の暗紛れ、晩にやいのと耳に口。
むべ山風の嵐ほど、どつと身にしむ〔合〕嬉しさも〔合〕
むべ山風の嵐ほど、どっと身にしむうれしさも。
秋の草木かしほじほと、一人寐よとは男づら、鮑の貝の片便、情ないではあるまいか
秋の草木か、しおじおと。ひとり寝よとは男づら。鮑の貝の片便り、情けないではあるまいか。
寄るをつき退けこりやどうぢや
寄るを突き退け、こりゃどうじゃ。
鼻の障子へたまさかに〔合〕
鼻の障子へたまさかに。
葱のかほる仇つきは〔合〕
葱の香る仇つきは。
時候違ひの鰒汁で、一人ばかりか盛換を、強ひ付けられぬ御馳走は
時候違いの河豚汁で、ひとりばかりか盛り替えを、強いつけられぬ御馳走は。
そもそもお辞儀は仕らぬ、是を思へば少将が、九十九よ九十九よ思ひつめ〔合〕
そもそもお辞儀は仕らぬ。これを思えば少将が、九十九夜、九十九夜、思いつめ。
傘を〔合〕かたげて丸木橋やおつとあぶない〔合〕すでの事鼻緒は切て片足ば〔合〕ちんが〔合〕ちがちがオヽ冷た
傘をかたげて丸木橋、や、おっと危ない。すでのこと、鼻緒は切れて片足ば、ちんが、ちがちが、おお、冷た。
其の通ひ路も君故に〔合〕衣は泥にあかつきの、すごすご帰る〔合〕憂き思ひ、ならぬながらも〔合〕我が恋は〔合〕
その通い路も君ゆえに。衣は泥に、暁の、すごすご帰る憂き思い。ならぬながらも我が恋は。
末摘花の名代を、つき付られて〔合〕恥かしい〔合〕
末摘花の名代を、突きつけられて恥ずかしい。
地下の女子の口癖に〔合〕
地下の女子の口癖に。
田町は昔今戸橋、法印さんのお守も
田町は昔、今戸橋。法印さんのお守りも。
寐かして猪牙に柏餅、夢を流して隅田川〔合〕
寝かして猪牙に柏餅、夢を流して隅田川。
男よけならそつちから、頬は高間がはらの上、乗せる手ごとはお断り
男よけならそっちから。頬は高天が原の上、乗せる手ごとはお断り。
逃げんとするを恋しらず
逃げんとするを恋知らず。
引とめるのを振払ひ
引きとめるのを振り払い。
イヤイヤイヤ逢ふ恋
いや、いや、いや。逢う恋。
待つ恋
待つ恋。
忍ぶ恋
忍ぶ恋。
駕籠は
駕籠は。
シテこい〔合〕
して来い。
萌黄の蚊帳〔合〕
萌黄の蚊帳。
呼んでこい
呼んで来い。
ぎつちり詰つた脂煙管、笑凹のいきのうくばかり、是ぢやゆかぬと康秀が
ぎっちり詰まった脂煙管。笑窪の息の浮くばかり。これじゃゆかぬと康秀が。
『不二や浅間の煙は愚〔合〕衛士の焚く火は沢辺の蛍、焼くや藻塩で身を焦す、さうぢやへ
富士や浅間の煙は愚か。衛士の焚く火は沢辺の蛍、焼くや藻塩で身を焦がす。そうじゃえ。
合縁奇縁はあじなもの、片時忘るる暇もなく、一切からだも遣る気に成つたわいな、さうかいな
合縁奇縁はあじなもの。片時忘るる暇もなく、一切からだも遣る気になったわいな。そうかいな。
花に嵐の色の邪魔、寄るをこなたへ遣戸口、なか殿さしてぞ走り行く走り行く
花に嵐の色の邪魔。寄るをこなたへ遣戸口、中殿さしてぞ走り行く、走り行く。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第三編 清元集(明治四十二年)の校訂本文(著作権消滅)による。繰り返し記号は読みやすく展開し、合方の指示は省いた。濁点つきの繰り返し記号は「しおじお」と展開した。
変化物としての題は『六歌仙容彩』(ろくかせんすがたのいろどり)。別題『文屋の康秀』。松井幸三 述。作曲者・初演年は原典に記載がない。
文屋康秀は六歌仙の一人。「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」(古今集)が本歌で、冒頭近くの「むべ山風の嵐ほど」と、「秋の草木かしほじほと」の二か所でこれを踏む。
「お清所」は御所の台所。官女たちの働く場で、この曲の舞台にあたる。「地下」は殿上人でない身分。「中殿」は御所の建物の名。
「少将が九十九夜」は深草少将の百夜通いの故事。「末摘花」は源氏物語の巻名で、鼻の赤い姫君のこと。前の「鼻の障子」「葱の香る」から言い掛けている。
「田町」「今戸橋」「猪牙」「隅田川」は江戸の吉原通いの道筋で、王朝の場に江戸の廓を重ねる趣向。「柏餅」は寝具にくるまって寝ることをいう俗語。
「衛士の焚く火」は大中臣能宣の「みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ」による。
当ライブラリの六歌仙物は、既収の喜撰(長唄集の本文による・清元と長唄の掛合)に続く二曲目。あちらは茶汲み女への懸想、こちらは官女への懸想で、どちらも生臭い可笑しみを身上とする。
語義の定めがたい語は推測で埋めず原典のまま残した。「ひとのしに」(ひと伸しにと解した)、「鼻の障子へたまさかに」「葱のかほる仇つきは」(切り方が定めがたい)、「ちんがちがちが」(囃子詞)、「頬は高間がはらの上」(高天が原に頬を掛けるか)、「笑凹のいきのうくばかり」。
流儀・稽古本によって仮名遣いや字句に異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。