安宅の松あたかのまつ
本名題「隈取安宅松」

「勧進帳」と同じく能「安宅」に取材するが、こちらは道行と里の童のわらべ唄を主とし、末は疾風のうちに姿を消す幻想的な結びとなる。
あらすじ
旅の衣は篠懸、露に濡れた袖を絞る道行に始まり、あらち山、気比の海、木の芽山、三国の港を経て安宅へ着く。里では落葉を掻く童たちが無心にわらべ唄を歌い、鬼ごっこに興じる。二上りでは背戸の今年竹を笛にしたいという恋の唄、安宅の松の耐える姿。子宝を寿ぐ祝いの唄が続いたのち、にわかに疾風が起こって天地が鳴動し、岩も枯木も揺れるなか、その姿は見失われてしまう。
詞章と現代語訳
旅の衣は篠懸の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしぼるらん、都の外の旅の空、日もはるばると越路の末、思ひやるこそ遥かなれ
旅の衣は山伏の篠懸。旅の衣は山伏の篠懸。露に濡れたこの袖を絞ることだろう。都を離れた旅の空、日もはるばると越路の果てまで——思いやればまことに遥かなことよ。
東雲早く明けゆけば、浅茅色づくあらち山
東の空が早くも明けてゆけば、浅茅が色づく愛発山。
気比の海、宮居久しき神垣や、松の木のめ山、尚行く先に見えたるは、杣山人のいたとり川瀬の水の遊ぶつや
気比の海、久しく鎮まる社の神垣。松の木の芽山。なお行く先に見えるのは、杣山人の姿と、板取の川瀬に遊ぶ水のつややかさ。
末は三国の港なる、蘆の篠原浪寄せて、靡く嵐の烈しさは花の安宅に着きにけり
行く末は三国の港。蘆の篠原に波が寄せ、靡かせる嵐の激しさのなか——花の安宅の地に着いたのであった。
落葉かくなる里の童の、野辺の遊も余念なく
落葉を掻く里の子どもたちが、野辺の遊びに余念もない。
そりゃたがめづきちっちゃ、子もちゃ桂のはちんがはちんがはちんが、ちんがらこ、走り走り走りついて先へ行くのは酒屋のおてこ
それは誰の目突きだ、小さいぞ。子持ちは桂の——はちんが、はちんが、ちんがらこ。走り走り走って先へ行くのは酒屋のおてこ。(わらべ唄。語調を楽しむ箇所)
あとへさがるは狼狐、あまが紅ついて
あとへ下がるのは狼、狐。尼が紅をつけて。
ととやかかに言はうよ言うたら大事か、そってくりょ
父さんや母さんに言いつけようか。言ったら一大事か。剃っておくれ。
葉越しの葉越しの月の影
葉越しの、葉越しの月の光よ。
裏のなア、裏の背戸やの今年竹、笛にしょうもの草笛に、笛になりたや忍ぶ夜の、笛は思ひを口うつし、アアアアしょんがいなしょんがいな、忍ぶ
裏のなあ、裏の背戸の今年生えた竹。笛にしようよ、草笛に。笛になりたい、忍び逢う夜の。笛は思いを口移しに伝えるから。ああ、しょんがいな、しょんがいな。忍ぶ——。
忍ぶ其の身は安宅の松よ、雪の夜毎の潮風に、もまれもまれて立ちつくし、あかしてこれしてしょんがいな、面白や
忍ぶその身は安宅の松よ。雪の夜ごとの潮風に、もまれもまれて立ちつくす。明かしてこれして、しょんがいな。面白いことよ。
絶えずや子宝、一に千石米蔵常陸の国のつのおかに、黄金の花が咲いたよさ、にっこりはっこりホホホ
絶えることのない子宝よ。一に千石の米蔵、常陸の国の角岡に、黄金の花が咲いたよさ。にっこり、はっこり、ほほほ。
ホホホお笑ひめしたはしっかい在所の在屋殿だんべい、いっかいいっかい俵に、酒樽千杯万杯万杯まんまん杯うっておけしゃんしゃん
ほほほ、お笑いになったのはすっかり在所の在屋殿でしょうよ。いっぱい、いっぱいの俵に、酒樽が千杯、万杯、万々杯。打っておけしゃん、しゃん。
神の鈴はしゃんぐしゃんぐと、さっても揃ふた子宝
神の鈴はしゃんぐしゃんぐと鳴り、さても見事に揃った子宝よ。
一度にとへばおとよけさよ、辰松ゆる松だんたらいなごにかいつくぼう、かいつくひっつくしゃんしゃん、扇に馴染む風の子や
一度に問えば、おとよ、けさよ。辰松、ゆる松、だんたら、いなごに、かいつくぼう。かいつく、ひっつく、しゃんしゃん。扇に馴染む風の子たちよ。(子どもの名を並べる数え唄)
風の木の葉の散り散りに、里をさしてぞ、ゆめゆめ疑あら磯の、砂を飛ばす土煙、梢の木の葉もはらはらはら
風に木の葉が散り散りに舞い、里を目指して。ゆめゆめ疑うな——その「あら」から荒磯の、砂を飛ばす土煙。梢の木の葉もはらはらはらと。
俄に吹き来る疾風風、天地も一度に鳴動して
にわかに吹きつける疾風。天地もいちどきに鳴動して。
岩石枯木ゆさゆさゆさ、どろどろどっと山颪の、風かあらぬか其の姿、見失ひてぞ立ちにける
岩石も枯木もゆさゆさと揺れ、どろどろとどっと吹きおろす山颪。風であったのか、そうでないのか——その姿を見失って、ただ立ちつくすばかりであった。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文(資料の題名は「隈取安宅松」)により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。
〔 〕で括った段の名は、読みやすさのために補ったもの。原典にはない。
冒頭の「旅の衣は篠懸の」は [[勧進帳]] と同じ次第。同じ能「安宅」に取材しながら、こちらは道行と里のわらべ唄を主とする。
「あらち山」は越前の愛発山、「気比」は敦賀の気比神宮、「三国」は越前の三国湊。北陸道の道行を地名で辿る。
わらべ唄と子宝の唄の部分は、意味よりも語調を楽しむ箇所。訳はおおよその意味にとどめた。
「安宅の松」は潮風に耐えて立つ松。忍ぶ恋の身に重ねる、この曲の題の由来。
作詞者・作曲者・初演年は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。