喜三の庭きみのにわ
杵屋勝三郎 節 別題「君の庭」 資料の題名『君の庭』

嵯峨野の秋の月夜に、松風にまじって琴と笛の音が通う。想夫恋・盤渉調の曲名に恋を寄せ、末は秋草の咲きにおう仙境の趣で結ぶ。
あらすじ
「牡鹿鳴くこの山里」と詠まれた嵯峨野の、秋の月の夜。露を置いた千種の草を踏み分けて、宿直姿の藤袴——駒を引きとめて休らえば、それと知らせる松風にまじって、通う爪音が身にしみる。合わせる音色は笛竹か。月の前の調べは夜寒を告げる秋風、雲居を渡る雁も琴柱に落ちる声々に。本調子となって、想夫恋の曲は比翼の翼を恋い、盤渉調の調べは連理の枝に通う。これはかしこき君が代に、わりない仲のひと節を、謡うも同じひと夜の君——その情けにひかれて尋ねてくる通い路に。七百年も昨日今日のこと、菊のきせ綿を打掛にして、桔梗・刈萱・女郎花。店の清掻の音につれて、色香を争う出立ちばえ。萩の錦がふくむ露の玉揃い。末は籬に隔てられても、格子を覗く月影に、招く尾花の忍び音——まことに面白い仙境である。
詞章と現代語訳
牡鹿鳴く此の山里と詠みたりし、嵯峨野の秋の月の夜に、露の千種を踏分けて
「牡鹿鳴くこの山里」と詠まれた嵯峨野の、秋の月の夜。露を置いた千種の草を踏み分けて。
宿直姿の藤袴、駒ひきとめて休らへば、夫としるべの松風に、通ふ爪音身にしみて、合はす音色の笛竹や
宿直姿の藤袴——その色の直衣を着て、駒を引きとめて休らえば、それと知らせる松風にまじって、通ってくる琴の爪音が身にしみる。合わせる音色は笛竹であろうか。
月の前の調は、夜寒をつぐる秋風、雲井をわたる雁がねも、琴柱に落る声々に
月に向かって奏でる調べは、夜寒を告げる秋風のよう。雲居を渡る雁の声も、琴柱に落ちるように響きあう。
想夫恋の曲は、比翼の翅を恋ひ、盤渉調の調は、連理の枝に通ふ
想夫恋の曲は比翼の翼を恋い慕い、盤渉調の調べは連理の枝に通いあう。
これはかしこき君が代に、わりなき中のひとふしを、諷ふも同じひと夜の君が、情にひかれて尋ねくるはの通ひ路に
これはかしこき君が代に、わりない仲のひと節を謡うのも同じこと。ひと夜の君の情けにひかれて尋ねてくる、その通い路に。
七百年も昨日今日、菊のきせ綿うちかけに、桔梗刈萱女郎花
七百年の歳月も昨日今日のよう。菊のきせ綿を打掛にして、桔梗、刈萱、女郎花。
店清掻の音につれて、色香あらそふ出立ばへ、萩の錦がふくめる露の玉揃い
店先の清掻の音につれて、色香を競う出立ちばえ。萩の錦がふくむ露の、玉のような揃いぶりよ。
末は籬にせかれても、格子を覗く月影に、招く尾花の忍び音は、実に面白き仙境なり
末は籬に隔てられても、格子から覗く月影に、手招きするような尾花の忍び音——まことに面白い仙境であることよ。
詞章は声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第二編 長唄集(明治四十二年刊・著作権消滅)所収の本文により、繰り返し記号は読みやすく展開した。合方(〔合〕)の指示は省いている。資料の題名は『君の庭』。
〔 〕で括った調子の名は原典のまま。
曲名は「喜三の庭」「君の庭」の両様に伝わる。作曲者杵屋勝三郎の「三」を詠み込んだものか。
「牡鹿鳴くこの山里」は『古今和歌集』の歌「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」などに通う、秋の山里の景をいう常套句。
「藤袴」は秋の七草の一つだが、ここでは宿直に着る藤色の直衣に掛ける。
「想夫恋」は雅楽の曲名。夫を思う曲の意に解され、恋の曲として詩歌に詠まれた。「盤渉調」は雅楽の調子の一つで、秋から冬にふさわしいとされる。
「比翼の翅」「連理の枝」はいずれも白居易「長恨歌」の句による、変わらぬ夫婦の契りのたとえ。
「菊のきせ綿」は重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせて露と香を移し、翌朝それで身を拭って長寿を祈る習わし。
「清掻」は三味線の爪弾き。廓では張見世の合図に弾いた。後半は嵯峨野の景から廓の風情へと転じる。
作曲年・初演は原典に記載がない。流儀・稽古本によって字句にも異同があるため、演奏の際はお手元の稽古本と照合されたい。